玄関のチャイムが鳴った。 「コーくん、具合はどう?」  俺はその声で目を覚ました。時計を見ると、もう昼になっていた。昨晩から風邪気味の身体は身体はまだ熱っぽい。それでもベッドから起き上がって、俺は訪問客を迎えに出ようとした。 「起きなくてもいいわよ。お料理持ってきたから、今温めるわね」  そう言って、声の主、飯田澄香さんはそのまま台所に入り、何かを調理し始めた。俺は澄香さんの言葉に甘え、ふうと息をついて、もう一度横になった。  澄香さんは隣の一軒家に住む飯田さんの奥さんで、旦那さんと9歳の男の子との3人暮らしだ。気のいい人たちで、澄香さん一家が隣家に引っ越してきてから、もう10年近くの家族付き合いになる。  本来なら澄香おばさんと言うのが筋なのだろうが、何せ初めて在ったころ、つまり俺が10歳くらいの頃の澄香さんはまだ20代の前半で、おばさんと言うよりは年上のお姉さんといった感じだった。実際今でも30半ばとは思えないほど若く美人で、ウチの母とは別な生物のようだ。そんな訳で今でも、おばさんと呼ぶのはどうにも抵抗がある。あんなに若いのだからきっと本人も好まないだろう、と俺は都合よく考えていた。  台所から何種類かの、食欲をそそる匂いが漂ってきた。途端にぐぅと腹が鳴る。両親が「俺が生まれてから初めて」の二人きりの旅行に出かけて二日目。出発直後に熱出して倒れた俺は、昨晩からメシを口にしていない。おそらく澄香さんは、両親が一週間ほどいなくなることを聞いていたんだろう。それで来てくれたのに違いなかった。一応大学生になったとは言え、ずっと実家住まいで家事などロクに俺にとって、こういった澄香さんの心遣いは大変助かるものだった。  10分くらい経って、俺の部屋の扉をノックする音が聞こえた。 「入るわよ」 「どうぞ」 「お邪魔します……あら、ちゃんと片付けてるのね。感心だわ」 「あはは、そうっすか?」  幸い、部屋はこの間掃除したばかりだったので、人を通してもいいような状態にはなっていた。  一週間前だったら入ってくるのを全力で阻止しただろう。俺は先日の俺に感謝する。 「でもカーテン閉めきっちゃって。暗くしてると具合も悪くなるわよ」  澄香さんは、パソコンデスクの上に食事の載った盆を置くと、ベッドを横切るように身体を伸ばし、さっとカーテンを開けた。今日初めて見る外光が目にまぶしい。 「起きれる?」 「あ、起きれま」  す、と起き上がって澄香さんを見た俺は、慌ててそこから目をそらした。  カーテンを開けるため、前のめりになった澄香さんのカットソーの襟元から、豊かな胸の谷間が覗いていた。澄香さんはゆるいカットソーを好んで着る事が多いのだが、たまにこういう事があるから困る。嬉しいけど困る。 「どうしたの?」 「え、いや、料理旨そうすね」  俺はとりあえず、パソコンデスクに乗せられた料理に目を向けた。嬉しい事に、実際それは旨そうだった。小さい土鍋に入ったおかゆ。土鍋は向こうから持ってきたものだろう、なかなか風情がある。あと、里芋の煮物、海老しんじょうのゆずあんかけ、お吸い物にはみょうがが散らされていた。小鉢は葱と油揚げの煮浸しに、胡瓜の漬物。最近和食派である俺の好みにばっちり合った献立だった。 「テーブルが無いのね。この机で食べる?」 「いや、床にしますよ」  俺はもそもそとベッドから出て、お盆をパソコンデスクからカーペットに移した。動けないわけでもない。 「そのままじゃ冷えちゃうわよ」  澄香さんが、壁にかかっていたジャケットを取って、俺の肩にかけてくれた。ジャケットと共にふわりと漂ってくる甘い香りは、シャンプーか何かだろうか。さっき見た光景もあって、ちょっとどきりとした。 「あ、えと、ホント助かります。すみません」 「いいのよ。今日はあの人も恭介も朝から釣りに行っちゃってて暇だったの」  でも、またボウズだと思うわ。澄香さんはくすくす笑いながら言った。 「さ、冷めない内に召し上がれ」 「マジで旨そうっすね! いただきます」  澄香さんの料理の腕は折り紙つきだ。俺は具合が悪いのも忘れて箸に手を伸ばした。  吸い物を一口すする。昆布だしのコクと、みょうがのさっぱりした風味が口の中で渾然となる。旨い。身体が胃から温まっていくのがわかる。続けて粥、漬物、煮物。俺は夢中で箸を伸ばした。 「おいしい?」 「ふぁい」 「よかったわ。沢山食べて、元気になってね」  言われなくても。  が、あまりにがつがつと食っていたからか、途中、里芋が気管の方に流れて、思わずむせてしまった。 「大丈夫?」  澄香さんが俺の横に飛んできて、背中を叩いてくれる。  大丈夫っすと言いつつ俺は、苦しい事より、急接近した澄香さんの顔と、香りと、腕に触れる柔らかい胸の感触にくらくら来てしまっていた。 ****** 「ご飯はタイマーかけてあるから、起きる頃には出来てると思うの。残ったおかずはタッパーに積めて冷蔵庫に入れてあるから、レンジで温めて食べてね」 「何から何まですみません」 「いいのよ。遠慮しないで」  後片付けも終え、玄関に向かいながら澄香さんは笑った。 「調子良くなってるみたいだから、一回シャワー浴びて、汗流した方がいいかもよ」 「そうっすね。そうします」 「それじゃ、お大事に」 「ありがとうございました」  ばいばいと手を振って、澄香さんは扉を閉めた。  いい時間だったなあ……。  余韻に浸りながら、最後に言われた言葉を思い出す。確かに、ちょっと、いやかなり汗っぽいかもしれない。もしかして匂いもキツいんじゃないだろうか。やばい、全然気づかなかった。  熱っぽさも和らいだみたいだし、一度汗流しておくか。俺は風呂場に入ると、熱いシャワーを浴びた。  それにしても……俺はまたさっきまでの時間を思い返す。澄香さん、美人だし、気が利くし、優しいし――ついでに巨乳だし――マジで最高だ。それで料理も旨いってんだから、飯田のおじさんは幸せ者だよな。今日作ってくれたおかゆだって……。  あれ。  何だ。  おかゆ。  うん。おかゆだよ。おかゆ。旨かったじゃないか。  いいじゃないか。旨かったよ。おかゆも、みょうがのお吸い物も、葱の煮浸しだって。そうそう、海老しんじょうなんて柚子あんでさ。すげえ凝った病人食――。  病人食。  何で病人食なんだ。  俺が病人だから。ああ、それはそうだ。  でも、どうやってそれを知った?  入ってきたら俺が病気だった。だからそれに合わせて料理を作った――違う。彼女は入ってきてから部屋に料理を持ってくるまで俺と顔を合わせていない。だから俺が病気だと知る由も無い。仮に気づいたとしても、彼女は料理を「温める」と言った。あのおかずはもう作ってあったものだ。  偶然そういう献立を持ってきていた……偶然にしては出来すぎだ。いや、仮に偶然だったとしよう。おかずはいい。ありえなくもない。だが、健康な人間におかゆを持ってくるか? 土鍋だってそうだ。おかゆは、あの土鍋で作ったものだろう。あんな土鍋、俺の家には無かった。仮に、これも仮に土鍋がウチの物だったとして、彼女が台所に入って料理が出てくるまで、確か、10分程度。  おかゆを作るのに、たった10分。  俺にだってわかる。そんなの、無理だ。  俺はシャワーに打たれながら震える。寒い。何だよこのシャワー、冷たいじゃないか。温度を。シャワーの温度を上げないと。  湯温調整のノブをひねりながら、思い返す。  両親が出かけたのが昨日の朝。  俺が体調崩したのが昨日の夜。  それから俺は誰とも会ってないし、連絡も取ってない。  親にも伝えてない。  なぜ、彼女は――そうだ、咳が聞こえたんじゃないか? これもダメだ。飯田さんの家とは庭を挟んでいて、余程の大声じゃないと声は通らない。そもそも熱と鼻水がキツい風邪だったから、咳もそれほど出ていない。カーテンも閉めてたから俺の姿が見えることもない。  知ってるはずがない。  だけど、彼女は、言ってたじゃないか。  ドアを開けたときに。 『コーくん、具合はどう?』  そうだ、彼女は。  澄子さんは。  ・・・・・・・・・・・・  俺が病気だと知ってたんだ。  シャワーを止める。寒い。湯を浴びていたはずなのに、全身が氷のように冷たかった。  バスタオルで身体を包むが、歯の根がガチガチと音を立てて止まらない。  考えすぎだよ俺。そうさ。偶然だ。偶然に決まってる。  偶然――おかゆを――作って――くる、か? 「……寒ぃ」  パンツをはき、パジャマを手にとって、それより厚手のスウェットの方がいいと思い、それを脱衣所に放り投げた。  俺はパンツにバスタオル一枚羽織ったまま部屋に戻り、洋服ダンスの引き出しを乱暴に引きあける。  一段目――違う。二段目――にもない。  くそ、どこにしまったんだよ俺!  三段目の引き出しを開けようとした、その時。  ぴんぽん。  玄関のチャイムが、鳴った。