玄関のチャイムが鳴った。 「はい」  寝汗でべとつくスウェットを着替える事もせず、俺はベッドを出て玄関に向かう。  訪問販売と宗教の勧誘だったら半殺しにしてやる――熱が出てようが、その位の力は残っているはずだと思いながら。 「どちら様……」  言いながらドアスコープを覗いた俺は、そいつの顔を見て仰け反った。  何で、ヤツが、己ノ瀬桐(みのせ きり)が、ここを。 『あ! いらっしゃるんですね! 開けていただけますか!』  ドア越しに声が聞こえた。冗談じゃない。誰が天敵相手に戸を開くか。 『亜紀良様! 亜紀良様ったらぁ!』  馬鹿野郎。こんな所で「様」をつけるな「様」を。隣近所があらぬ疑いを抱くだろうが。  畜生め。この展開は予想外だ。どうする。  しかしヤツは、俺が考えるより早く次の手を打ってきた。 『もういいですよー。こっちからカギ開けますよ!』  何?  待てオイ。  チェーンをかける間もなかった。ヤツはがちゃりとカギを開け、ドアを開く。 「亜紀良様ぁ!」  言うが早いが、ヤツは俺に抱きついてキスしてきた。不覚にも、まさに不覚にも、俺はそれを避ける事ができなかった。 「桐、すっごく心配したんですよ!」  エプロンをつけ、台所に立って、桐は嬉しそうに包丁を振るっていた。  俺はベッドに入りながら、ぼーっとそれを見ている。  アイドル顔負けのルックス。小顔、長い脚、スマートなスタイル、抜群のファッションセンス。  そんなヤツが、自分の為に、愛情込めて料理を作ってくれている。  普通の男なら泣いて喜ぶシチュエーションだと思うが、俺はとてもそんな気にはなれなかった。  第一ヤツは……そうだ。一人暮らしにしたのだって、理由の一つは桐に自宅を急襲されたくなかったからだ。だから学園にもここの住所は伏せてある。  待て。  それなら何故こいつはここに来れたんだ。そもそもどうして合鍵を持ってるんだ。  俺はベッドから桐に問い掛けた。 「由紀野先輩に連絡したら、お一人で暮らしてらっしゃるって言うから、大丈夫かな、食べてるかなって」 「姉さんに連絡!?」 「ええ。そうしたら由紀野先輩、じゃあお見舞いに行ってあげてって、鍵まで貸してくれたんですよ!」  そうか。クソ、姉さんならありえる。でも、それなら姉さんが来てくれればいいじゃないか。俺は小声で不満を漏らした。 「あと30分くらいでできますよ!」  手を拭いながら桐がこっちを見て、にっこりと笑った。ムカつくことにカワイイ。俺は舌打ちして寝返りを打った。 「どうしたんですか? 寝苦しいとか……あーっ! もしかして、パジャマ変えてないんじゃないですか!」 「それがどうした」  パジャマなぞこの際どうでもいい。一刻も早くこの地獄が終わってさえくれれば。 「ダメですよ! こまめに着替えないと……」  急にヤツが黙った。  何だ。何だこの不気味な沈黙は。 「……あ、お、お着替えお手伝いしますよ?」  ぞくうっ。  悪寒が背中を盛大に駆け抜けていく。  俺はベッドを飛び出しタンスをあけて着替えを取り出すと、ユニットバスに駆け込んだ。 「絶対に覗くなよ!」  本来こういうのは女の方のセリフなんじゃないのか。俺はスウェットを脱ぎながら、言い知れぬ屈辱に耐えていた。  あっさり味の中華粥は、存外旨かった。  付け合せは梅干、塩昆布、ザーサイ。どれも旨かった。梅干は桐の実家で漬けたもので酸味が強く味が濃い。昆布は大阪の、ゑびすめというものらしく、これは気に入った。他にこれも薄味のポトフ。体が温まるのを感じる。  食べさせようとする桐の申し出を断るまでの悶着がなければ、もうちょっとよく味わえただろう。 「じゃ、桐、これで帰りますよ!」  洗い物を片付け、ご丁寧に部屋の掃除までしてから、桐は元気に帰りの挨拶をした。 「とっとと帰れ」 「つれないですよー。でもそういう亜紀良様がステキですよ!」 「見送ってやるから早く帰れ……」  これ以上こいつと一緒にいたら、どうにかなってしまいそうだ。  玄関でヒールを履き、振り返ってぺこりと頭を下げる桐。  そしてそーっと、上目遣いに頭を上げながら。 「あの……帰りのキスとか……」 「出てけ!」  俺は全力で桐を蹴りだした。  鍵を締め、チェーンをかけると、俺はずるずると玄関にへたりこんだ。  最悪だ。  俺は大きく息をつく。と、桐がつけていた、香水の残り香が鼻腔をくすぐった。  クソ! 俺は立ち上がると窓を開け、換気扇を全開に回す。  逃げていく柑橘系の香りが、嫌でも思い起こさせる。旨い料理。明るい声。抜群の笑顔。ちょっと拗ねた顔は、姉さんに似ていた。  畜生。  ヤツは。ヤツは何で。 「何で、あれで男なんだ……」  俺は頭を二、三度振って、もう一度布団に潜り込んだ。